分かりやすい憲法改正学へのすすめ
  ──その4、現行憲法の前文を検討し、新しい前文を考える。──

清原淳平会長

講話日:平成27年1月29日(木)

清原淳平会長

講演要旨

 前文は、必ず置かなければならないものではないが、歴史のある国々は置いている。前文の法的性質は、憲法の一部であり、法規でもあるが、裁判規範性は否定され、各条文を解釈する指針として法的効力は有する、というのが通説である。また、最高裁判例は、一貫して前文の裁判規範性を否定している。
 現行憲法の前文については、様々な批判がある。まず、前文が長すぎるという批判があるが、ドイツ、フランス、当初のアメリカ憲法などはもっと長い。明治憲法も告文・発布勅語・上諭を前文と解するとずっと長文であり、この批判は当たらない。また、現在の「前文」は外国の引用だからダメだという人もいる。確かに、「前文」は5センテンスに分かれるが、アメリカ憲法、リンカーンのゲティスバーグ演説、国際連合憲章、テヘラン宣言などからの引用が多い。しかし、引用でも内容がよければよいとの批判に、どう反論するか?
 現行日本国憲法は、結局、日本占領下で連合国軍最高司令部の職員によって起案されたので、「前文」も、その担当職員が苦労して、上記のような箇所から引用したものと思われ、内容的には、(1)直接民主制を取らず間接民主制を採用、(2)国民主権主義、(3)基本的人権尊重主義、(4)平和主義、(5)それらを人類普遍の法則として遵守する誓い、を謳っている。
 しかし、この「前文」には、前述のように翻訳調で分かりにくい表現のほかに、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」とか、「日本国民は、・・・平和を愛する諸国民の正義と信義に信頼して」など、日本人の世界に対する「詫び証文」的表現があるが、その後の国際社会は、この「前文」に掲げるような理想が実現しているだろうか。この70年間、世界には戦争の惨禍が絶えず、そして、日本を取り巻く国際環境も「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」出来るような経過・現実ではない。
 なお、「前文」の第2センテンスには「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」とあり、これは、リンカーンのゲティスバーグ演説「Government of the people, by the people, for the people」から採ったものであり、日本ではその冒頭の「Government of the people」を訳して国民主権と解する説が強いが、これは、外国学者でも日本の学者間でも、否定する考えが出てきている。外国で「国民主権」と解するのを否定したのは、イギリスの法学者ジェームズ・ブライス(James Bryce1838~1922)である。彼は、リンカーンの演説の原稿に「Government of the people,」とあって、government とofの間に「,」がないことから、このofは、「所有のof」ではなく、「関係のof」だと主張して、支持を集めた。したがって、日本でも賛同する学者が出て、この部分を訳す場合、「国民主権を意味するのではなくて」、「国民にかかわる政治」すなわち「国民を統治することだ」と解するのが正しい、とする学説がある。連合国軍総司令部起案の英文を翻訳した現行「日本国憲法」には、そうした誤訳があること。その他の用語についても、誤訳箇所を指摘する学者も出ている。
 さて、ちょっと、学問的な細かい問題に入りましたが、私の言いたいのは、要は「翻訳調で日本語になっておらず」「詫び証文であり」「誤訳があり」「外国憲法や外国人の発言や国際条約の文中から集め」「現実からかけ離れた理想主義ばかりを掲げている」今の『前文』を改めて、「長い歴史を有し」「固有の教養を築き」「皇室を戴いて継続してきた国柄・伝統・文化」を織り込んだ、新しい『前文』をつくりましょう、ということであります。
 当団体としては、平成15年の第一次全面改正案において、当時、竹花光範駒澤大学法学部教授が原案を書き、この「自主憲法研究会」で検討・補筆・承認した「前文」案がありますので、本日、皆さんに配布いたしましたので、皆さんもお帰りになって、それらを参考に、それぞれに、「前文」を案文してみて下さい。
(この後、食堂にて新年懇親会を開催した)

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