「舛添要一東京都知事の憲法観を検討する」
講話日:平成26年3月26日(水) 高乗正臣先生 平成国際大学副学長・同大学院教授、憲法学会理事長 |
講演要旨
舛添要一氏が、新著『憲法改正のオモテとウラ』の中で、自民党改憲草案(第二次草案)を徹底的に批判している。これについて反論を加えたい。舛添氏は、(1)立憲主義に基づく権力制限規範としての憲法(=近代的意味の憲法)だけを是とし、(2)その国の政治的伝統や文化を反映した、「国柄」を確認する側面を否定している。しかし、諸国の憲法の中で(2)が欠けているのは日本だけである。憲法の中に価値観や国柄を入れることに、なぜ舛添氏が反対するのか不明である。わが国が他国と異なるのは、長い歴史を通して皇室が精神的統合の中心として存在し、皇室と国民との間に対立、抗争の歴史がなく、天皇が常に国民の幸せと社会の安寧を祈り、国民が天皇を慕う姿勢を持ち続けてきたという点にある。これに対して西欧中世の国王達は、国土、人民を私有財産と同様に考え、それを相続したり、分割したりしてきた。多義的な主権概念は、まさにそのような政治権力的土壌から生まれてきたものであるから、主権概念はそもそもわが国の皇室のありように馴染むものでなかった。
また、現代は憲法の権力制限規範(1)の側面だけを論ずることで済まされる時代ではなくなっている。政府は国民の福祉や教育に関して責任を有し、国家の安全保障や災害対策、治安の維持や社会保障、雇用政策などに積極的に関与しなければならない役割を担っている。
厚労大臣を経験した舛添氏にして、この点に関する言及がないのは、憲法観として、はなはだバランスを欠くものと思われる。
「憲法は、道徳を語るものではない」と舛添氏は言うが、ドイツのボン基本法2条1項は、「各人は、他人の権利を侵害せず、かつ、憲法的秩序または道徳律に違反しない限り、自己の人格を自由に発展させる権利を有する」と規定している他、世界人権宣言やスイス連邦憲法、イタリア憲法などにも同様な規定がある。また、青少年の健全育成のためにする有害図書の販売規制やわいせつ文書の頒布禁止、買売春の禁止などは、公共道徳の一部である性道徳の維持を論拠として正当化され、墳墓の発掘や遺骨・遺髪の損壊(刑法189、190条)や神祠、仏堂、墓所等の礼拝所に対する不敬行為(同法188条)が、他社の権利を侵害しない場合でも処罰される理由は、わが国の伝統文化と宗教意識・道徳を除外しては説明できないであろう。舛添氏は、これらの規定をどのように評価されるのであろうか。
その他の舛添氏の指摘も、そのほとんどが的外れと言ってよい。◎自民党草案の「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって~」について舛添氏は「政治的責任を伴う」と危惧しているが、諸国の元首は例外なく象徴としての機能を有しており、二者択一的に捉えるべき概念ではない。したがって政治的責任を伴うことを危惧する必要はない。◎現行憲法の第13条「すべて国民は、個人として尊重される。」の「個人」の部分を、自民党草案では「人」に変更されていることを捉えて、舛添氏は、立憲主義の否定だと主張しているが、これは論理の飛躍といわざるを得ない。諸国の憲法を見てみても「個人」ではなく「人」という言葉を使用していることは多い。
舛添氏が議論の前提とする社会契約説の論理や天賦人権の概念が、科学的検証に耐えないフィクションであることは改めて確認するまでもない。今回の憲法改正は、わが国が外国の憲法神話に拘束されることなく、自主独立の主権国家として自らの手でなしうる初めての機会であることを忘れて欲しくない者である、との解説でした。